表参道周易塾

Column 鼎趾を顚さまにす

「鼎趾を顚さまにす。(かなえ、あしをさかさまにす)否を出すに利ろし(いなをだすによろし)」というのは、

「火風鼎」という卦を語る上で、一番最初に登場してくる言葉です。

 

火風鼎の鼎というのは今風に言えば鍋です。普通私たちは調理をする時には、きれいに洗っておいた鍋を使用し、わざわざ鍋を洗うことからは始めません。ところが、この卦は、この鼎をひっくりかえして、中身を洗い出すことから調理が始まります。

 

なぜこんな所からこの卦は始まらなくていけないのか、この不思議な鍋である鼎はいったい何者なのかというのが今回のテーマです。

 

博物館で見た鼎は青銅で、実に堂々としていて重そうで、奇怪な動物とも神様とも言えないような文様でびっしりと全体が埋め尽くされていました。これをひっくり返すのも容易ではなさそうで、近寄りがたい風格が漂っています。

 

古代中国の王様はこの鼎で牛や羊、豚を煮てお供え物を作って天帝を祀りました。その後は、このお供物は日ごろの

慰労を兼ねて部下の賢人たちにふるまわれ、

王様は様々に政に関する部下の意見に耳を傾けたといわれています。この鼎に法律を刻んだりもしたようです。王朝が変わると鼎も新調されました。

 

それにしても、これだけではわざわざ鼎をひっくり返すことから、話を始める理由はなさそうに見えます。

 

ところで、易経の六十四卦というのは、アトランダムに配置されているわけではなく、それなりの理由付けがあって並んでいて、火風鼎の前には澤火革という卦が配されています。なぜ火風鼎は鼎をひっくり返すことから始まるのかという謎が、この澤火革を紐解くことでわかってくるというのです。

 

澤火革は、金属の塊が火でドロドロに溶けてしまうほど、ガラッと形が変わってしまう卦で、人間世界で言えば革命です。澤火革で一応革命は終了するのですが、一度ガラッと変わってしまったことが、簡単に新しいものに生まれ変わるということはありません。そこで次に配置された火風鼎は以前の世で通用していたものを全部こそげ落とすことから始まるというわけです。澤火革がとことん壊す卦なら、火風鼎はゼロどころかマイナススタートで作り上げる卦といえるでしょう。

 

革命というと大それたテーマのように聞こえますが、流血の嵐はなくても、小さな革命は日常の中にいくつも起こっています。

 

日本人にとって、お茶を入れて飲むというのはなじみの深いものです。しかし、昨今お茶離れが叫ばれ、小学生向きに「お茶を上手に入れるコンテスト」などが開かれるのも、このお茶離れに対する歯止めの意味があるのでしょう。

 

緑茶の最高級品といえば「玉露」です。栽培するのにもとても手間がかかるお茶であることもさることながら、お湯の温度も一度沸騰させたお湯を50度から60度に冷まさせてからでないと、独特のうまみや甘みがでてきません。

 

この手間があるからこそ「玉露」は「玉露」ともいえるのですが、お茶といえばペットボトルに慣れてしまった現代人は、ちょっと面倒くささが先に立って、昔ほどには珍重されにくくなってきました。

 

そんなある日、あるお茶農家さんが、熱湯でも十分楽しめる「玉露」を試行錯誤の果てに商品化されたという話を耳にしました。

 

私も「お煎茶」のお点前を少しだけかじった事があるので、手間や手順をかける価値のあるものこそ「玉露」なのだという考え方は非常に大事で深い意味があることだとは思っています。

 

しかし、お茶はこうして頂くものだという啓蒙の一方で、この手間を省くという発想はある意味、非常に破壊的なのかもしれませんが、せかせか忙しい現代人でも、最高級の「玉露」をさほどの抵抗感なく愛好できるという点から考えると、一考の余地があると思うのです。

 

熱湯でも入れられる「玉露」を作りたいと考えた農家さんはまさに革命家です。試行錯誤を繰り返し、大変苦労されたそうですが、その技術を開発すること以上に、「玉露はこのようにして飲むべきものである」という固定概念を削除して、「このようにすれば玉露はもっと飲んでもらえる」という考え方に変換できるというのは、これこそが革命なのではないでしょうか。文字通り、鍋の底にこびりついたものをじょりじょりと洗い落とすとはこのようなことを指すだと思います。

そしてじょりじょりこそげ落としても擦り減ることのない鼎にあたるのは、日本人の緑茶愛好精神はどんな時代でも消えることはないという確固たる信頼なのだと思います。

ひょっとしたら鼎というものは、たかが革命ごときで壊れないほどの、一民族が長い間じっと守り続けてきた「源泉のようなもの」がその正体なのかもしれません。

 

最近あちこちから時代は変革期にあるという言葉を聞くようになりました。

VUCAの時代とでもいうのでしょうか。歴史を振り返ってもこのような時はいくらでも人類は経験してきましたが、そのたびに新しい考え方が生まれてきました。多分今の時代もあちこちで、革新的な考え方がどこかで生まれつつあるのだろうと想像します。

 

こんな時は、我々がそこに安住し、拠り所にしてきたかもしれない「べきだ論」は急速に失速していくでしょう。そして「実際にこの現状に役立つ考え方」が台頭していくことになると思います。この流れはやはり澤火革、火風鼎の二つの卦が象徴している「時」が来たのだと覚悟をする必要があるのではないでしょうか。

 

これは、易経を読む身にとっても同じことで、あらゆる観点から「易経はこういうものであるべきである」という

考え方を疑い、現在の地点で、実際に役立つ易経の考え方はいったい何なのか、何を削除して、何を変換していかなければならないのか、真剣に考えなければならない時が来たのだと感じます。

 

来年は、このあたりをじっくり探っていく一年になることを心に留め置き、来年という時を味わい、深めていきたいと決意する年末です。

 

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