Column 森喜朗氏の発言をめぐって
五輪オリンピック組織委員長の森嘉郎氏が、女性蔑視発言を理由に降板し、橋本聖子氏が後任になったことは、まだ記憶に新しいですね。
外国の友人からは「日本はまだ儒教国家なのか」と言われ、少なくとも儒教経典に入っている「易経」を教えている私としては、改めて事の重要性を感じざるを得ませんでした。
この「易経」ですが、最初から儒教教典に入っていたわけではありません。初めは、陰陽という言葉すらなく「―」と「–」という符号だけがあったと考えられます。奇数と偶数、日向と日陰といった違いを元に、自分たちが生きている世界の仕組みをそのような符号を以て解き明かしたのだろうと考えます。
そのうち、符号に文字が付き、漢代初頭には「易経」の思想面を担う「十翼」特に「繋辞伝」ができたことで、天人合一の思想や陰陽という言葉が生まれました。陰陽は互いに補うものとされながらも陽に比べて陰が微妙に差別的なのも、道徳を身に付けた君子をトップに置く道徳的階級性を免れないのも、その当時の国家政策として儒教が国教化されるに至った情勢を反映しているのだと思えば納得がいくというものです。そしてこの儒教的解釈はそのままずっと現代まで続いています。しかしながら人間らしく生きるためには徳の道を歩めという教えは、時代を超えて大切な考え方であることは否定できませんが。
また、易占として「易経」を見た時には、何千年もの間、同じテキストを使っているのに、占うことが出来き続けるというのは、考えてみればとても不思議なことです。これは「易経」が符号と文字の混合による象徴表現であることで、あらゆる事柄をそこに連想として読み取るという構造を備えているからだろうと推察します。つまりはどんなに社会情勢が変化しようと、変化に対応する力が「易経」にはあるという証拠でもあるのです。
日本は急激に超高齢化社会を迎え、それをやれる人が率先してやるべきことをやらなければ社会は立ち行かなくなってきました。年齢、性別、立場や地位というより、役割としての自分を優先するしかないのです。陽の立場になってやれる人ならば、女性でもリーダーという役割をやり、陰の立場になってやれる人ならば、男性でも家事という役割をこなさないと家庭や社会は回っていきません。
「易経」のお決まり事によれば、「開」は陽で、「閉」は陰に当たります。ドアを例に取ると、開きっぱなしのドアや閉じっぱなしのドアなら、壁か壁がない状態と同じです。ドアは開閉された状態とともに、開閉する働きがあるからドアはドアなのです。男は陽だから開放的、女は陰だから閉鎖的と考えるのは、ドアを開きっぱなし、閉めっぱなしのものと見るのと同じです。コロナ対策として換気が重要視されるようになりました。冬でも窓やドアは閉じたり開いたりの加減をしながらの半開きです。陰も陽も固定されたものとばかり取らないで、陰の働き、陽の働きの中にこそ、その価値を見いだす方がより現実的な陰陽の活用範囲が広がる様に感じます。
「易経」のお決まり事の一つに「極まれば変ず」というルールがあります。陰も陽も行き着く所まで行くと陰は陽に、陽は陰に変わります。しかし陰と陽という固定されたものが、お互いに入れ替わるのではなく、袋が裏返るように変わるのだと見れば、陰と陽は裏表というだけで同じものに過ぎないと思えるでしょう。毎日のようにコロナで死者の数がニュースで流れますが、生きることと死ぬことを違うものととらえることと、生死は表裏一体ととらえることと、どちらが今の状態をリアルに把握できるかというと、生死は表裏一体ととらえる方がよりコロナ禍の時代に生きている私という存在に向き合えるのではないでしょうか。
そんなことを考えていると、「易経」を成立史的理解を踏まえながらも、今の時代に必要な陰陽論に基づいた「易経」の追求に舵を取らなければならない時が終に来たと気が付き始めた私を発見した次第なのです。