Column 占うということ
易占の鑑定士になってかれこれ20年以上が経ちました。
なりたての頃は、なんと言っても自分で立てた占いがズバリ当たることだけを願う毎日でした。そのうち、未来という時間の標的の小さな小さな丸の中心に向かって射った矢がスパンと音をたててハマるが如く、占ったことがぴたっと当たることが出てくるようになりました。その時はむしろ「ヤッタ!」と言うより、当たったことに当の本人がびっくりし、占いのもつなんとも不可思議な神秘性にむしろ肌寒いような懼れを懐いたことを覚えています。
人は自分の素顔を直視したり、不安や恐れを長く抱えこむことがあまり得意ではないようです。だから自分や未来のことを怖いながらも知りたがり、占い師がどんな時代にもどんな国にも存在している理由はここにあります。
この頃、未来を表す標的の小さな丸の中に射った矢が当たるが如く、占ったことがぴたりと当たるような占いは、ひよっとしたら時としてせっかちな解決や安易な自己肯定を呼び込んでしまうのではないかと思うことが多くなりました。
というのは、手の痺れに長年悩まされ、今度の治療方法は合っているかと尋ねてくる方、
壊れそうな家族関係をなんとか維持すべく自分の今の努力がどのくらい家族に伝わっているのか尋ねてくる方、
そんなどこかで何かを耐えて生きている方が、今の宙ぶらりんな状態を必死に踏ん張っている方が、今を生き抜くための言葉を探すような目的で易占を求められた場合、つまりは右か左かというような二者選択でもなく、容易な解決策を求めるのではない場合でも、易占はかなり力強い言葉を提供し、共感または味方になるのだということが体感できるようになってきたからではないかと思うのです。
宙ぶらりんの状態を踏ん張っている人は、お会いするたびにどこかしら人としての深さが増してきます。相談に乗っているのは私なのですが、人としての生き方を教えられているのは私です。占い師になって良かったと思うのは、こんな方達にお会いできるがあるからです。せっかちな解答や安易な自己肯定は決して人を成熟には導きません。
だから今は、「相談者を導く占い師ではなく、相談者の背中を支える占い師でありたい」
自分の地頭で物を考えられる人のための、つまりは「占い師をあまり必要としない人の為の占い師でありたい」と願うようになりました。