表参道周易塾

Column 習わずして利ろしからざるなし

今回のテーマの「習わずして利ろしからざるなし」は、坤為地の二爻に登場する言葉です。

陰を代表する坤為地とか陽を代表する乾為天という卦は、他の卦のように陰陽が入り混じって構成されている卦とはちょっと別格で、一つ一つ別に読むよりも、二つの卦を同時に比較しながら読み進むことで、理解が深まったり、思わぬ発見があったりすることがあります。

 

今回の坤為地二爻の「直方大。習わずして利ろしからざるなし」も、乾為天の三爻「君子、終日乾乾。夕べに惕若たれば、厲うけれど咎なし」とを読み比べしている時に、あることに気が付きました。

乾為天の「君子、終日乾乾。夕べに惕若たれば、厲うけれど咎なし」」は、君子はとにかく積極的に仕事をして、一日が終わったら今日の行動を顧みて反省、内省すれば危なっかしいところはあるけれど、何とかなるという意味ですが、坤為地の「直方大。習わずして利ろしからざるなし」は、反省や内省はいらないというより、「直方大」というこの長所は先天的に坤為地がもっているという理由で、「習う」ことはいらないというのです。

なにげなく「学習」として一つの単語のように使っている「習う」ですが、「学」は「まねる」といわれ、人から物事を教えてもらいながら知ることで、一方の「習」は繰り返し練習、復習することをいいます。

学んだことを時に復習するのは、一層理解が深まって楽しい事であるという「学びて時には之を習う、亦た説ばしからずや」という有名な孔子の言葉がありますが、「学」と「習」の違いをよく示している例といえるでしょう。

 

「習」というからには「学」が必ずその前にあることは自明としてよいとしても、乾為天の「終日乾乾。夕べに惕若たれば」は。自分が行った事柄について一つ一つ検討をせよというのですから、これは「習」です。ところが坤為地は、もともと内蔵されているので、「習う」ことはないというのです。

この点から判断していくと、「習」がある乾為天つまり「天」は、リピート、アップデートの世界で、頭を使って考える力、努力し続ける力、進歩が牽引する力の世界。一方で「習なし」の坤為地つまり「地」は恒常の世界で、もともと備わっている力、心身で感じる力、ゆだねる力、存在することそのものに価値を見出す世界というように大雑把ですが、区別ができそうです。

 

コロナが蔓延した時、皆がこぞって目ばかり露出させてマスクを外さなかったことはまだ記憶に新しいでしょう。あのマスクをしながら人と話すときの息苦しさ、何とも言えない違和感は未だに忘れることはできません。

 

私は占い師として、たくさんの人と対面してきました。そして人は言葉を発するちょっと前に音のない呼吸というか息をすることに気づくようになりました。その呼吸を感じることで、相談者がなにか話したいのだなと察して、話すことを中断するようにしました。私の話に賛同、訂正を加えたいのか、追加の情報をいいたいのか、私が相談者の話を誤解して受け取っていることへの不安感があるのか、どんなことを伝えたいのかはその時の呼吸の温度感やタイミングで、なんとなく言葉を聞く前にわかってきます。すると一方的な会話であったものが対話に変わっていくので、占い師の「天からの声」の代弁者的なものに含まれる独断を、もっと共感できるかみ砕いたわかりやすい表現に変える糸口が見えてきます。

そういうわけで、占う側にとってはこの話し出す瞬間の呼吸、息のようなものを感じることはとても重要で重宝なのです。

けれどマスクをしていると、この一瞬の呼吸がわからないので、目の動きだけを頼りにするしかなく、やはりどこか一方的な占い師の言い方になっていたのだろうなと今でも思うことがあります。

 

考えてみれば、呼吸は「おぎゃー」と泣いて生まれた瞬間から、ずっと死ぬまで続くものです。私も普通の呼吸についてあれこれ創意工夫をしたことはないので、もともと身体の一部として備わっているものなのでしょう。だとすれば、呼吸は「陰」そして「地」の一員です。そして呼吸は、「陽」の頭脳を活発にしたり静かにしたり、その動きをコントロール、また支えることができます。

 

「地」は恒常の世界で、もともと備わっている力で、常に動いているのですが、そのせいで、その働きに「陽」である「頭」が気づくことが難しいとも言えます。その働きは言葉を持たないので発信力もとても弱いです。

しかしながら、呼吸というこの「地」「陰」の一員がうまく動かなくなってしまったコロナの時代はどうだったでしょうか。人々の生活や社会のあちこちに閉塞感、疎外感、不信感が瞬く間に広がっていきました。

 

儒教的な「陽は導き陰は支える」「陽はエネルギーを陰に注いで陰はそれを形にする」のあのフレーズを、コロナ体験者の我々はもっと違った感性でとらえなおすことをしなくてはならないのではないかと思うのです。

 

「導く陽」の気が付かない細部にわたって「支える陰」は常に活動しています。陰の働きの細やかに気づくことは、陽の導きをまた豊かな視野に導きます。「陰の形を生み出す力」も陽のエネルギーを受けて子供、動物、植物などを生みだすのですが、生み出したものを全体の交流の中でよりよく活かしたり、陽の世界をより深く受け止め理解することに大きくかかわっています。これらの働きは、コロナのような前代未聞の事態が起こらなければ、ごく当たり前のものとしてあまり注目もされなかったでしょう。けれどこの前代未聞の災害はこれからは前代未聞ではなく、日常的な災害に変わっていく時代に突入していくことでしょう。

 

アップデートしないもの、言葉を持たないもの、恒常性のもの、感じるもの、静かなものの存在をもっと掘り下げて考えてみるのは、これからの時代にとても意味のあることに思えます。

 

そうすれば、乾為天は「習」がとても大事であるのに、相方の坤為地は「習」は必要ないと記された易経を、儒教的な陰陽論の差別的拡大解釈を離れて我々の時代にあったアプローチで、少しづつではあるけれど、新たな道を見つけられるようになると思うのです。

 

 

 

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