Column 或いは踊りて淵にあり
富士山に向かって「おはよう」といい、里山に点在する桃色の霧のような桜を眺めて、一か月が経ちました。表参道に注がれる上品な光とは違って、ダイレクトに地上を照らす太陽を浴びていると、少しずつ体の細胞が緑色になっていくようで、それはそれで面白い発見です。
講座も、易経の先頭に登場する乾為天を文言伝付きでとり上げるクラスが、時同じくして始まったおかげで、字通り心機一転になりました。
題材に挙げた「或いは踊りて淵にあり」は、乾為天の四爻に登場する龍を描いたものです。この龍は、頭上には天が広がり、足元には深い洞穴が口を開けている淵にいて、飛び上がろうとしたり後ろに下がってみたりしているところが、まるで踊っているように見えるのだそうです。
「踊っている」というユーモラスは表現で描かれてはいますが、この龍はそんな呑気な心境ではありません。
ライバルを相手に絶え間ない努力を続け、やっと天に向かって飛び立てる力を備えるまで成長したのです。さっさと天に向かって飛び立ってしまえばなんの問題がないこの時に、眼下に開いた深い洞穴を龍はなぜかのぞき込んでしまいます。
どんなことがあっても自分の力を信じて、勢いでここまでやってきた龍としては、今までとは全く違う局面にぶつかってしまいます。文言伝にはこの状態を「乾道乃ち革まるなり」と表現し、龍が龍たらんとする直前のターニングポイント、まさかの瀬戸際が来たぞと意味深長なことばを掲げるのです。
天を縦横無尽に動きまわる龍は飛龍と呼ばれ、寺院の天井に厳かな姿で描かれ、天子やリーダーのシンボルにもなるくらいの聖獣なのですが、その直前の有様はあまり知られてはいません。
この淵に佇む龍はいったい何をのぞき込んでいるのでしょう。簡単に言えば、優等生のスランプで、不安、自信のなさ、迷い、恐れ、悔恨といった渦を見つめているのだろうとまでは容易に想像できるのですが、こういった心境は仲間に言ったところで誰もわかってくれない、もしくは仲間には絶対知られたくないようなことでしょうから、分かち合えない個別的領域であることの辛さが引き立ちます。優等生の龍としては感じたことのない息苦しさ、孤独感かもしれません。
易経を読んでいて面白いのは、このように優等生の龍の困惑した姿をちゃんと描いている点にあります。乾為天はすべてが優等生、実力者、陽の世界だとはいうものの、テーブルに座っているのはすべて陽だらけのメンバーしかない場合では、「自分の意見が絶対に正しいとは考えずに話し合いなさい」というアドバイスがちゃんとついていますし、乾為天の終わりは「亢龍」といって硬直してしまった龍であり、陽がいき過ぎて柔軟性を失ってしまった自分を悔いると書かれています。
陰陽をどう取り扱うかは大変難しいのですが、全陽の乾為天を読む時には、隠された陰の効力をちらりほらり観察しながら読み進める方が、断然面白い観方ができるように思うのです。
この踊る龍の苦しさは、陽の内面で柔軟な陰が育っていく過程です。「乾道乃ち革まるなり」をうまく通過するには、陰の力をしっかり裏側に蓄えることにあると読むことも可能なのではないでしょうか。日本画で、キャンバスの裏側に彩色をすることで表の絵の深みが増す手法があるそうですが、人の目には絶対に触れない裏側、つまりは陰を上手く使うことによって、表の陽はぐっと輝きを深めます。
「乾道乃ち革まるなり」というのは、実はそんなに立派な陽でもない自分をかかえながら、ただ見つめているだけの天の真意を想い、落下覚悟で天空に飛び立つための「お試し」をいうのかもしれません。「お試し」を突破するには強気ばかりを良しとすることは不可能というものです。
ゴールデンウイークの手慰みに、龍の姿を描いてみようと思い立ったまではいいのですが、龍は魚、爬虫類、動物などの寄せ集めでできた物凄い想像の産物であることがわかっただけで、手足の付き具合やしっぽの先はどうなっているのか、いまだに筆は止まったままです。
やはり陽の中の陽の正体を見極めるのはそう簡単にはいかないようです。