表参道周易塾

Column 地の類

坤為地という卦があります。坤為地は柔順で柔和、何事も付き従う徳をもてば吉であるといったような内容で、陰陽論を柱とする易経にあっては「陰」を担当する卦で、一方の「陽」を受け持つ乾為天と並んで、易経の中では別格扱いの卦となっています

 

坤為地の卦辞は「坤は元いに亨る。牝馬の貞に利ろし、君子往く攸あり。・・・」という一文で始まります。「貞」というのは「坤の従順さをしっかり守れ」というような意味合いなので、「牝馬の貞」というのは、家畜として飼われていた牝馬は、気性が穏やかで飼い主のいうことを良く聞く使い勝手の良い動物だったから貞であり、坤為地という卦を表すのにピッタリな動物として、身近な家畜である牝馬がとりあげられたのだろうなどと古代の中国人の生活を想像しながら、読める文です。

 

さらに、この卦辞には「牝馬は地の類、地を行くこと无彊なり。柔順利貞、君子の行うところなり・・・」というような彖伝と呼ばれる解説文が付いています。

 

彖伝は卦辞よりも時代が下がってからつくられたもので、古代中国でも儒教の考え方が反映されていると言われています。素朴な占いの書であった易経が、一つの強烈な考え方の思想に取り込まれていき、この解説文もその過程で生まれていったと考えてもいいでしょう。

 

そう思ってあらためて彖伝を読むと、この「牝馬は地の類」という「牝馬」にわざわざ「地の類」という表現が付いている点が気になってきます。

 

「類」という漢字はグループ分けをする時に用いられますが、グループ分けがあるということは、分類するための原則が背景にあるということになります。

我々の時代にあっては「男の類」と「女の類」の識別をめぐって今までの認識やシステムなどがあらゆるところでクラッシュを起こしているように、「類」が発生するところ、必ず社会構成にかかわる大きな原則があると見なさなければなりません。

 

「牝馬は地の類」と言っている裏にはどんな原則があるのでしょう。

 

易経の解説本の一つに「説卦伝」があります。この説卦伝では「乾は馬なり。坤は牛なり」と記されています。坤為地なら地の類は素直に「牛」の方が適切であるように思えます。

朱子の説明などを参考に整理してみると、馬は乾に入るけれど、牝は陰なので牝馬となると陰の馬になり、さらになぜ牛ではないのかというと、「地」は「天」をいつでもどこでも受け止めなければならないものなので、「天」の限りない広がりについていくには、牛では力足らずで、馬のようにどこまでもとことこ歩んでいける脚力がある動物でなければならないのだということがわかってきました。

 

単なる占いの書であった易経が、儒教の重要な経典になるという過程で、「天」が主で「地」が従になる「天地」の考え方がこの辺から入ってきたんだなあということが「地の類」という言葉一つから想像がつきます。君臣の在り方や男女の在り方もこの「天の主導のもとに、天のあるところ地はどこまでも従うべき存在」という大原則のもとに派生していったということですね。

 

朱子の時代は最も儒教が理念的な完成を見た時代なので、単純に地の類とか天の類とかいうような分類ではすまなくなり、もっと小理屈が付いた細かい分類に発展していきました。極めつけに朱子の残したちょっと面白い分類があるので、ご紹介します。

 

天は丸く、地は四角いというのが中国人の宇宙観なのですが、人の頭が丸いのは天に似ているからで、足が四角いのは地に似ているので、人は天地の間にいて真っ直ぐ立っていることができる。よって人は天地の気をきちんと受けていられるのだと朱子は人の姿を分析します。では動物はどうかというと、動物は真っ直ぐではなく横向き(天や地と平行)なので偏った気しか受け止められないので、人より知能が足りないのだというのです。

 

植物はどうかというと、草木は頭(根)が下に向かって生え、尾(枝)の方がかえって上にあるというのです。人が天に向かって頭を向けているように、植物は頭を地に向かって向けている、根を広げているというのです。朱子は人は天から天と同じ性質を貰っていると心から信じていた人です。ですから草木も地から地と同じ性質を根を通じて貰っているのだと考えたのでしょう。

 

時代も国も違いますが、プラトンは「人間は逆立ちした植物だ」といいました。

「植物が地面から生えているように、人は天に根差した生き物であるので、地上の欲に侵されることなく、気高く生きよ」とプラトンは呼びかけます。

天に人の一番大事なものを授けてもらっていると考えていたのは、プラトンも朱子も同じです。

 

ここで植物の姿を改めて朱子流に眺めてみると,

人間の「頭」が植物にとっては「根」ということになるのです。

人間にとって物を考えたり、感じたり、体を動かしたり、生命活動全般にわたってその人の司令塔に当たるのが頭です。植物にとっての生命活動の司令塔は「根」になるということは、いつも葉っぱや幹、花を見て、その植物を植物だと思っている我々は実は植物は逆立ちをしている姿を見ているんだということになります。

 

そう思って、植物を見直してみると、確かに花は生殖器ですし、ゴボウとか山芋とか、「根」がとても長い植物は「根」が短いものと比べて、しっかり大地の栄養を吸って丈夫に生きている賢さを感じます。岩をも砕いて「根」を張っている大樹などは、賢人のような風格があるものそのせいなのでしょうか。

サツマイモやジャガイモ、根菜類といわれるものを食べると健康に良いといわれるのも、植物の脳みそをむしゃむしゃ食べるからでしょうか。

 

さらに最近の研究によれば、植物の根は非常に知性的なのなだそうです。

人が天から受け取る大事なものは、「仁義礼智」と漢字に直すととっつきにくい表現になりますが、心当たりがある好ましい人の立ち振る舞いを思い浮かべばなんとなくその「仁義礼智」の正体は伝わってきます。

それに比べて植物が地から受け取った知性というのは、「重力、磁場、湿度、化学物質の分析力」といったものだそうです。人間の知性とは質が違うものですが、地球上であらゆる生き物が生きていくための知恵というレベルで考えたら天から受け取るもの、地から受け取るものは、どちらも同じくらい質の高いものといえるでしょう。

 

天火同人という卦の象伝には「君子以て族を類し物を辯ず」とあり、君子は同族のものを一類にまとめ、違ったものを弁別せよ」と書かれています。象伝も儒教の影響を色濃く伝えているので、政治を行う者は同じものと違う者を区別せよというからには、区別をしっかり行うことで、社会的な安定を図れということなのでしょう。しかし当然のことながら、区別には、身分制、民族格差、性差別などの存在を前提とした言い回しであることには違いありません。

 

では現代の我々が差別を含んだ区別をしていないかというと、そんなことは決してありません。けれど、区別は差別のためにするのではなく、形状が全く違う者同士であっても、互いに違いを分かり合うための一歩としての区別、分類でありたいと考えることは、とても意味をもつ時代であるように私は思うのです。

 

朝の連続テレビ小説では、牧野富太郎博士をモデルに「らんまん」が放映されていますが、「男の類」と「女の類」の識別をめぐって大混乱を招いている今の世情と、地の類である植物が非常に価値あるものとしてクローズアップされているのは、けして偶然ではないと思うこの頃です。

ページトップへ戻る