Column 周という名
周という中国の王朝が、独特の意味合を持つのは、この王朝が殷王朝を武力で倒した時に、本来なら主家筋を臣の側が倒すということはあってはならないのに、その王朝を倒すことが、天の命によるものならば、それは正しいこと、つまり革命(天命を革める)なのだという強烈な革命理論の元に誕生した王朝であるからといえます。
もう一つは、この周王朝は文王、周公旦といった徳のある為政者が出て(周公旦に至っては絶好のチャンスがあったにもかかわらず、甥の摂政となり自分を王としない選択をとりました。孔子はこの周公旦を絶賛します)古代中国において理想的な国家であるというブランド力を授かったからであるといえるでしょう。
NHKの大河ドラマでは「麒麟がくる」が放映されていますが、稲葉山城の城主斎藤龍興を倒した織田信長は、その城下の「井之口」という地名を「岐阜」に変えました。この「岐阜」は尾張「政秀寺」を開いた沢彦宗恩(たくげんそうおん)が「岐阜・岐陽・岐山」という三つを提案した中で信長が選んだのが「岐阜」でした。この「岐山」というのは周の祖先が根を下ろした地名です。その後、信長は元号を「天正」と改めましたが、これも「天は正しいものに国の主権を与える」という「周」を意識した上での選択であったと思われます。明智光秀が丹波支配の拠点のために築いた山城も「周山城」と呼ばれました。
この「周」という名は江戸末期で再び浮上します。「詩経」の「大雅・文王篇」の「一説「周雖旧邦 其命維新」(周は旧邦といえども、その命これ新たなり)が「明治維新」の出典だといわれています。
日本の支配体制が大変革をする時に、「周」という名はどこからともなく表れて、次世代を担う人の背中をぐいっと押しあげる役割を担ったのです。
今、コロナ感染拡大で日本のみならず世界はおおきな変革期に入りました。もう現代では、「周」という名は「史記」に塗り込まれた死語になり果てたのでしょうか。
そうではないと思います。コロナ拡大で、人が人知を超えたものを意識し、大量の感染死者を出すと人は前よりもっと「人としてどう生きるか」を問うようになりました。「天」と「徳」という「周」の名が示すところの本質は言葉こそ違いますが、再び浮上してきたと私には思えてなりません。
私が学んだ「易」も「周」の時代に生まれた易ということで「周易」と呼ばれています。戦国時代には「足利学校」で実践的な「周易」が伝授され、ここで学んだ軍師は信用がありましたし、明治維新の時は易聖高島嘉右衛門が「周易」によって天下国家の大事を占いました。「周」という名が表に出てくるときは必ず「周易」も共にあったのです。
「周易」も今では「うらない」のひとつであるのですが、変革期を生きる人々の傍に寄り添う「周易」ならではの特別な責任がまた我々に背負わされているような気がしてなりません。